〜最終章 桜の花が咲く頃に……〜
朝、窓から差し込む朝日が俺のことを優しく起こしてくれる。
いつもと変わらない朝。
「おはよう、ヤックン……今日はちゃんと起きたんだね」
「まあね、俺だって起きるときはちゃんと起きるよ」
「それに今日はまだこんな時間だし、遅刻になりそうもないね」
「そうだな(笑)」
俺も彩乃も朝からニコニコだった。
さわやかな彩乃の笑顔が、俺まで笑顔にさせる。
「じゃ、行くか…」
「うん☆」
俺が彩乃と自分の鞄を持ち、部屋を出る。
階段を下りると、母親がリビングから飛び出してきた。
「あら、ヤックン……彩乃ちゃんと仲直りしたの?」
「そんなんじゃねぇよ」
「いいえ、おばさん。あたしとヤックン仲直りしたんです☆」
「違うって」
「そぉ〜、良かった〜。お母さん心配しちゃったから……。こりゃ、今夜は赤飯だわ♪」
俺はそんな喜ぶ母親を見て複雑な気持ちになった。
確かに彩乃と居ると心底楽しい、幸せだ。
しかし親友の松岡はそんな幸せを昨日まで送っていた。
松岡のことを考えると、俺は素直には喜べない。
そう、俺に課せられた指名は……親友である松岡にどうやったら説得できるかということだろう。
松岡だって人の子だ。いつも来ていた彩乃が急に来なくなって、心配してるかもしれないし、落ち込んでるのかもしれない。
俺はそんなことを考えながら、いつも通い慣れた学校までの道を彩乃と歩いていた。
「ヤックン、どうしたの? 考え事?」
彩乃が突然、のぞき込んできたので照れ笑いしながら「なんでもないよ」と俺は答えた。
「うそでしょ? だってヤックン考え事するとき、いっつも眉間にしわ寄るんだもん」
きゃははと黄色い声で彩乃は笑った。
彩乃もこういう可愛いところ、あるんだなぁ〜。
「考え事っていうもんじゃないんだけど、ちょっとな……松岡のことで……」
「松岡君? なんで?」
「だって、昨日までは彩乃と付き合っていたのに……今日から急にコレじゃ……(苦笑)」
「そっか。まだ伝えてないの?」
「まだ……」
「あたしね、思うんだけど……松岡君ってきちんと話聞いてくれるし、とっても頭が切れる人だから……あたしの時みたいに素直&正直に言えば理解してくれると思うよ」
「ああ……松岡に言ってみるよ」
とは言ったものの、俺は心底不安だった。
松岡も彩乃に対してはすごく情熱的だったし、俺の素直な言葉を真摯に受け止めてくれるか……実のところ、全然予想が付かない。
今回ばかりは彩乃の言葉も、俺を圧迫させる材料となってしまった。
「あ、ヤックン……コンビニ……寄らないの?」
ちょっと気まずそうに彩乃は俺に問いかける。
「コンビニ? 今日は寄らねえよ……」
さすがに今日はコンビニには気まずくて入れない……。
先日あった遊園地での出来事が頭によぎる。
『黒柳君の恋人は彩乃ちゃんが似合っていると思うよ』
藤野さんが俺に言ったセリフだ。
このことを思い出すと、今でも少し心が痛むのは気のせいだろうか……。
それほど俺は周りの人物に迷惑をかけてきたのかもしれない。
不安になってコンビニの中をのぞくと、カウンター奥に藤野さんは居た。
彩乃と俺の姿を確認した藤野さんは、俺に微笑んでくれている。
いまはちょっと気持ちの整理が付かないから厳しいが、落ち着いた頃にでも彩乃とコンビニに行って、藤野さんに報告したいと思う。
「ねぇヤックン、いつもの人(藤野さん)…居た?」
「居たよ」
「どうだった?」
「笑ってた」
へぇ〜、と相づちを打つ彩乃。
「そっかぁ〜……」
「彩乃、ほらほら、そんなよそ見してると転ぶぞ」
「きゃっ☆」
ドスン♪
俺の心配は的中し、彩乃は躓いて(つまづいて)転んでしまった。
「いたたた……」
えへへ、と照れ笑いする彩乃。
「大丈夫か? どれ見せてみな? 膝すりむいてるな…」
「大丈夫、このくらい……平気だもん♪」
彩乃はパンパンとスカートの汚れをはらうと足早に学校へ急いでいった。
「おい、ちょっと待てよ…」
俺も彩乃を追いかけながらの登校になってしまった。
それにしても彩乃の奴……怪我してるのに走っていっちまうんだから……(苦笑)
膝から出血してる彩乃のことを放ってはおけず、俺は彩乃を追いかけた。
学校の校門をくぐり、校舎裏の下駄箱に着いたときである……彩乃が急に止まったのだ。
走る勢いが衰えない俺は、急に止まった彩乃にぶつかりそうになってしまった。
そう、人も急には止まれない…。
「彩乃……急に止まるなよな……」
と俺は彩乃に文句を言いながら、目の前を見ると絶句した。
彩乃も固まっている。
そして二人を驚愕させている張本人が口を開いた。
「どういうことなんだよ、彩乃ちゃん」
松岡の声は震えていた。
必死に問いかける松岡の態度も虚しく、彩乃はうつむき口を閉ざしたままだった。
俺は彩乃と松岡の間に割ってはいる。
「松岡、聞いてくれ……これは俺から話す。だけど、彩乃は今怪我してるんだ……急いで保健室に行かなきゃならないから、また後でな」
俺は真剣に松岡に話す。
松岡も彩乃の膝から出血をしてることに気が付き、無言の承諾をした。
「さぁ、彩乃……行くぞ」
彩乃は俺に引っ張られ、保健室へと急いだ。
「………」
二人の間に沈黙の間が続く……。
松岡一人のためにこんなにも二人がギクシャクしてしまうとは思ってもみなかった。
今の二人は言葉を忘れてしまったかのような雰囲気すら感じる。
静寂の空間に二人は閉じこめられている気分だ……少し息苦しくもある……。
俺は彩乃を椅子に座らせ、無言で治療を始めた。
綿を瓶から取り出し、消毒液を付けて、彩乃の膝に当てる。
じゅくじゅくと泡が発生し、彩乃は必死に痛みをこらえていた。
傷口の上にガーゼを乗せて、包帯を巻く。
怪我の応急処置が終わると、彩乃がゆっくりと口を開いた。
「……ごめんね……」
「なにがだよ……彩乃が謝ることなんてないだろ?」
「…ううん……私のせいでヤックンを困らせてる気がするから……」
「別にイイよ……彩乃のせいじゃないし」
「……でも……本当に…ごめん……」
彩乃は堰(せき)を切ったように泣き出した。
俺はこのとき、彩乃に対してなにも言葉をかけられなかった……。
号泣する彩乃に対して俺が出来ること……それは……
黙って優しく抱きしめてあげることだけだった。
彩乃の気分が落ち着いてから、二人で教室に向かう。
もちろん、すでに2時限目は始まっている。
…ガラガラガラ………
「おはようございます」
「はい、おはよう……それにしても今日もまた遅刻ですか?」
教師の皮肉っぽい言葉に少しキレそうになる俺だったが、彩乃が割って入りフォローをする。
「あ、あの……違うんです…私ケガしちゃって…いままで黒柳君に付き添ってもらってたんです」
「保健の先生は?」
「いませんでした……遅番みたいです……」
教師はまだなにか言いたそうな雰囲気だったが、座りなさいと俺と彩乃に目配せで合図した。
彩乃と俺は、そそくさと自分の席に座る。
周りのヤツからは、いつものようにいろいろと冷やかしを言われたが気にしなかった。
その後の授業はもちろん頭に入るわけでもなく……親友にどううち明けて納得してもらうか必死に考えていた。
そして、イヤな時間というのは刻(とき)が過ぎれば必ず来てしまうもので………
昼休みを始めるチャイムが鳴り響く。
軽く終礼を行い、みんな昼休みのためか表情が明るくなる。
しかし俺と松岡だけは、明るい表情とはほど遠い真剣な表情だった。
「松岡……ちょっといいか?」
「なに?」
「話があるんだ……」
松岡は無言で頷き、いつもの場所である校舎裏へと場所を移動した。
「そういや、最近暑いよなぁ〜」
俺は気を紛らわすために世間話をした。
「まだまだ残暑は続くらしいよ……もう10月になろうとしてるのに……」
「そうだよ、もう秋なんだよな〜……暑いから実感沸かなくて」
「黒柳、僕とそんな話をするためにココに来たの?」
「………」
松岡に的確なことを言われて、俺は沈黙してしまった。
「…ねぇ……早く話してよ……こういうツライのは僕キライなんだ」
俺は意を決して、自分の素直な気持ちを松岡に伝えた。
「まず、松岡にはなんていったらいいのか……俺は彩乃が好きだ。この気持ちは変わらない」
「で?」
松岡の問いかけの口調は驚くほど優しかった。
「その好きって言う気持ちに気付かせてくれたのは、松岡……お前だったんだ。それまでの自分は彩乃があまりにも身近に居すぎたから、好きって言う気持ちがわからなかった」
「………」
「だから松岡……彩乃のことは諦めてくれ」
俺のこのセリフが松岡の逆鱗に触れてしまった。
「そんなのムリに決まってるじゃないか!!」
「わりぃ……」
「なにが悪いだよ……散々人を利用しておいて、自分の気持ちがわかったら諦めろ? そんなのないよ! 納得がいかない」
松岡の正論に俺は反論が出来なかった……確かにその通りだと思う。
ただここで松岡のことを鵜呑みにしてしまうと俺の意見が言えなくなってしまう。
腹を割っての本音トークに遠慮はいらない……俺も松岡に対して言葉をぶつけた。
「彩乃は……彩乃は……彩乃は俺のことが好きなんだ」
「そんなの本人に聞かなきゃわからないだろう!!」
「彩乃がそう言ったんだ……」
「彩乃、彩乃って……ちゃんと彩乃ちゃん本人から聞かないとわからないだろ? ちゃんと聞くまでは納得しないからね」
「……ダメか……」
「当たり前だよ……それに、黒柳。彩乃ちゃんと寄りを戻そうとして、僕を利用したんだ?」
「…ち、違う…そんなことはない……」
「………ふん、もういいよ。 じゃあねっ!!」
松岡は俺の話を聞かずに去ってしまった。
校舎の裏に一人佇む俺だったが、気持ちはやるせないままだった。
そう思うと、自分は今後どうして良いのかわからなくなってしまう。
結果的に俺は友人の恋人である彩乃を奪ったあげくに、親友である松岡を失ってしまった。
やっぱり俺は無能なんだな……今更気付いても『時すでに遅し』だが……。
そして放課後。
俺は彩乃と帰る約束をしてたので、自宅まで一緒に帰った。
その帰り道、やはり彩乃から松岡について聞かれた。
「で、どうだったの?」
「怒ってたよ……諦めろとは言ったんだけど……ダメだった……親友を失ったよ」
俺の言葉に彩乃は真剣に耳を傾けている。
「……彩乃………俺はどうしたらいい?」
「私ね、思うんだけど……」
「なに?」
「ヤックンが松岡君に対しての言い方が悪かったんじゃないかなって思う」
「言い方?」
「『俺は彩乃が好きだ。だから諦めてくれ』とか言ったんでしょ?」
「うっ……(図星)」
俺の行動は彩乃にお見通しだった。
「じゃあさ、もしヤックンが私に『松岡君が好きだから別れよう?』って言ったら別れる?」
「……納得いかないな。理由もナシに別れるなんてできるかよ」
彩乃の表情が明るくなる。
「それだよ、ヤックン! ちゃんと理由を言って筋の通ることを言えばわかってくれるんじゃない?」
「そりゃそうだけど……」
彩乃の表情とは裏腹に俺の表情は曇る一方だった。
「だいじょうぶ、ヤックンならできるって……」
「う〜ん、頭の悪い俺が出来るかわかんねぇけど、なんとか頑張ってみるよ…」
「うん、彩乃も一緒に言ってあげるから」
簡単な会釈をして、俺と彩乃は自分たちの家へと入っていく。
別れ際に「今度の土曜日に公園でデートしよう」と彩乃に言われたので、俺は快く承諾した。
そういえば昔から彩乃とはデートというデートはしてなかったなぁ。
俺の買い物がてらゲーセン連れて行ったり、バッティングセンターで遊んだり、彩乃はいつも遠くから遊んでる俺を見て笑ってた。
「土曜日かぁ……楽しみだなぁ……」
土曜日まで、あっという間に時間は過ぎていった。
不思議と松岡も気持ちに余裕が出来たのか、俺に話しかけてくれるようになり親友とはいかないが友達くらいの仲にはなりつつある。
松岡が大人なのか、それとも俺がまだ精神的に子供なのか、何とも言えないが時間が二人の仲を取り戻してくれた。
これが若さなのかもしれない。
前日の夜に彩乃から電話があった。
『明日は森林緑道の桜の木の下に集合ね。時間は11時。ヤックンはいつも寝坊するから早めに居ること(笑)』
あれこれ彩乃から指示をもらい、俺はその日は床についた。
今から思うと、この前日が一番幸せだったんじゃないかと感じる。
土曜日のデートがこんな運命だったなんて、誰が予想しただろうか……。
この俺でさえ、思い出したくもない……
「遅いなぁ…彩乃…」
いつもは時間に厳しい彩乃が今回遅れていた。
待ち合わせは11時。もうすでに約束の時間から40分以上過ぎている。
俺は彩乃とのデートということで柄でもないのに花束を購入してみた。
「遅いよな……」
天気は曇り。どんよりした雲が空を覆っていた。
今にも涙雨になりそうな雲行きだったが、彩乃が来るのを俺は必死に待った。
彩乃は今まで『人は待たせても必ず来る』という事を実行していたから。
それにデート時の彩乃のファッションとか化粧もちょっと見てみたかった。
そして不安を覚えつつ、正午になろうとしたその時……
「ヤックン!」
彩乃か? と俺は思いっきり振り返った。すると、
「おふくろ……どうしてここに来るんだよ!」
彩乃ではなく、俺の母親だった。しかもかなり慌てて血相も変わっていた。
「大変だよ。彩乃ちゃんが……彩乃ちゃんが……」
「彩乃に何かあったのか?」
「彩乃ちゃんがね、交通事故で……」
俺は母親からそのことを聞いたとき、目の前が真っ暗になった。
いきなり幸せから不幸のどん底まで叩き落とされたようだった。
「事故?……彩乃が?」
「横断歩道を渡ってたら、信号無視してきた車に跳ねられたんだって」
それから母親から彩乃のことをいろいろと聞いた。
どうやら一命は取り留めたらしいが、意識不明の重体。
いままでのように治る見込みは、医者もわからないとのことらしい……。
とにかく俺は、母親と彩乃の元へ急いだ。
彩乃が入院してるのは、俺の自宅近くの大学病院だ。
設備は地域一番であり、よく急患などが運ばれてくる有名な病院だった。
母親と病院へ着くと、入り口から病棟まで続く芝生の中庭で子供達が遊んでいた。
きっとこの子達もここに入院しているんだろうな。
パジャマ姿で楽しく笑いながら遊ぶ子供達を横目に、俺と母親は病室へ急いだ。
「彩乃ちゃんはいま集中治療室だって、さっき連絡あったから…」
病棟入ってすぐのナースステーションで、母親が彩乃の場所を確認する。
彩乃大丈夫かなぁ………
これが俺の本音だった。
つい先日まで一緒に会話したり、一緒に遊んでいた彩乃が意識不明の重体。
信じられなかった。
この目で真実を見るまで、俺は絶対に信じたくなかった。
しかし現実は甘くなかった……。
「彩乃!!」
目の前の現実に俺は倒れ込んだ。
ベッドの上には、包帯に包まれた彩乃が横たわり、体中に管がささっている。
現在は人工呼吸器を使い、体に酸素を送り込んでいる。
そう、まさに生と死の分かれ目という奴だろう。
ベッドの両脇には彩乃の両親が、黙り込み俯いて(うつむいて)いた。
俺の脳裏には、ニコニコ笑いながら元気にはしゃぐ彩乃の姿が映る。
「黒柳さん……ちょっと、お話しが……」
彩乃の両親からなにか話があるらしい……とりあえず、集中治療室から出て話をすることに。
「……とても話しにくいことなんですが……」
「なんですか?」
「彩乃のことについてです……」
「彩乃は助かるんですか?」
俺の率直な意見に対して、彩乃の両親は首を横に振るだけだった。
「またまた〜。助かるんでしょ?」
俺は現実に背を向けるように冗談交じりに聞いてみたが、彩乃の両親は黙って首を横に振って否定した。
「黒柳さん、うちの彩乃はもう助からないかもしれない」
その真剣に語る彩乃の両親を見て絶句してしまった。
「もし助かったとしても、頭部を強く打ってるために記憶を失っているかもしれない」
その現実に、俺と母親はただただ黙って聞くだけだった。
彩乃の両親も身も心も憔悴(しょうすい)しきっていた。
一人の愛娘が一番カワイイ時期に事故で重体……ムリはない。
それからは二言三言(ふたことみこと)話をして、病院を後にした。
デートのために初めて買った薔薇の花束は、彩乃のために病室の窓際に飾ってきた。
きっと起きたときに目の前に綺麗な花があれば、少しは喜んでもらえるだろうという俺の気配りだ。
それからというもの、毎日がとても暗くつまらない物になってしまった。
彩乃が心配で夜も眠れない。
こんなに彩乃のことが好きだというのに……側にいてやれない……。
今は彩乃の意識の回復をただ待つだけだった。
それから3週間たったある日、彩乃の両親から連絡が入った。
どうやら彩乃が意識を取り戻したらしい。
俺と母親は自分たちのことのように喜び、病院へ向かうことにした。
俺も心底嬉しかった。
これで彩乃とたくさん話したり遊んだり出来ると思っていた。
しかし現実は甘くない。
「やっぱり、彩乃……記憶無いみたいです……」
彩乃の両親からそんなことを言われたが、俺は一命を取り留めた事の方が嬉しかった。
ベッドの脇にいる彩乃の両親を横目に、俺は彩乃の側へ足を運ぶ。
「彩乃、早く退院できるように頑張ろう」
「あなた誰?」
「……く、黒柳だけど……」
「黒柳さん?」
これが意識戻った彩乃と最初に話した一部始終だ。
本当に記憶喪失だった。
今の彩乃には俺という存在すら無い状態なのだ。
なんだか俺の心の中にも嫌気なるものが見え隠れしてきた。
こんなの彩乃じゃない。
確かに見た目やしぐさは彩乃だが、それ以外は別人である。
しかも俺と過ごした約10年の思いでさえも忘れている。
今の彩乃は俺を見ても「黒柳」という一人の男性でしかない。
幼なじみとか、そういう記憶もない。
そして俺は悩みに悩んだ末、母親に相談した。
「あのさ、彩乃のことなんだけど……」
「なあに?」
「もうどうでもよくなってきちゃってさ。見舞いももういいかなって」
「もういいって?」
「見舞いに行っても冷たくあしらわれるし、行かなくていいかなって思ってる」
「そう……本当にそれで良いの?」
「いいんだよ。あんなの彩乃じゃないし」
「あのさ、お母さん思うんだけどね。もうちょっと大人になったら?」
「もう充分大人だ」
「まぁ体は大人だろうけど、あなたは心がまだまだ子供よ」
「???」
「どうして、あきらめちゃうの?」
「あきらめてなんかいない、見舞いに行きたくないだけだ」
「主治医の先生がいってなかった?『なにかの拍子で記憶が戻るかも』って」
「もうどうせ、ムリだよ」
思い出が無くたって彩乃ちゃんは彩乃ちゃんなのよ
どうして、側にいてあげないの?
記憶なんてどうでもイイじゃない
大事なのはこれからの事なんだから
思い出がなかったら、これから思い出いっぱい作ればいいじゃない
母さんはそう思うけどな
人を本当に好きになるって、そういうことだと思う
あなたももうじき成人式を迎えるんだから、よく考えなさい
今の彩乃ちゃんは確かにあなたを冷たくあしらうかもしれない
でも本心は違うと思うな
だって10年間、毎朝ウチに来てあなたを起こしてくれてたのよ?
生まれてから今まで半分以上、彩乃ちゃんはあなたと一緒に居たの
そんな彩乃ちゃんがあなたのこと忘れないと思うよ
とにかく焦ったり諦めちゃダメ
根気よく彩乃ちゃんに接しなさい
そうすれば、いつか……
いつの日か、奇跡は起きるかもしれないから
「わかったよ」
母親の言葉に、少し反省した俺だった。
それからというもの、毎日俺は彩乃に話しかけた。
無視されようが、素っ気ない返事だろうが、必死に話しかけた。
そうして彩乃が意識を取り戻してから、ちょうど一年が経とうとしたときだった。
俺は彩乃をいつものように、病院の中庭に車イスで連れ出していた。
会話も少なからずあり、話題は好きな人のことについてだった。
「黒柳さんは好きな人居るんですか?」
「ん? ……まあ居るけど…」
「へぇ居るんだぁ……見てみたいなぁ」
「え? それはムリかもしれない」
「じゃあさ、どんな人なの? 私、気になる〜」
「う〜ん、思いやりがあって賢い子かな」
「へぇ〜、羨ましいなぁ」
「そんなことないよ。 彩乃ちゃんだって好きな人居るでしょ?」
「?、私? 私は………」
車イスを押しながら、俺は彩乃を見ていた。
好きな人がいると聞いたとき、一人で慌てていた。
そんな彩乃を微笑ましく思い、俺は彩乃に話しかけた。
俺の好きな人は、とてもステキな人だったよ
何事にも真剣で、何事にもマジメにする女性だった
いつも俺の隣にいてくれて、俺のサポートをしてくれた
もちろん、俺の良いところも知っていて、褒めてくれたりもした
歩くときはいつも俺の後ろをちょこちょこ歩いていてね
遊びに行っても、遠くから俺を見て優しく微笑んでくれてたよ
俺も昔は若かったし、近くにいるのが煩わしく感じたときもあった
でも、俺の側を離れてやっとわかったんだ
自分は「その人」が好きだっていう事に
そして離れていっちゃったんだ………
そんな俺の話を聞いて、彩乃は質問する。
「好きなのに、別れちゃったの?」
「運命だったんだ……」
「???」
彩乃の表情に理解できない様子がうかがえたが、俺は話を進めた。
その女の子の口癖は
『桜の花って嫌いだな、好きな人とかみんな離れちゃうから』
って、いつも言ってた
桜の花が咲く季節って、卒業とか生活の節目で別れがある
桜がいくら綺麗であっても、別れに涙するのがイヤだって言ってた
ただ、これには続きがあって……
昔、まだ小さいときに約束したんだ
『私達が二十歳になった最初の春に、この桜の木の下で逢いましょう』
言った本人は忘れているだろうけど
そう桜の花が咲く頃に、また逢おうねって……
まあ今となっては笑い話だけど
「……それって……」
「ん?」
「それって、ちょうど今じゃないの?」
確かに桜の花は咲いている、春の麗らかな昼下がり。
約束の木の下にいる俺と彩乃。
言葉無く見つめ合う二人。
桜の花びらがヒラヒラと舞い、彩乃や俺を祝福してくれるようだった。
そして俺は、彩乃に優しくキスをした。
このとき、俺は彩乃を大切に守っていこうと決意した
記憶なんてもうどうでもいい
彩乃の全てを好きでいたい
ただ彩乃と同じ空間を共有したい
もしこのまま記憶が戻らなくても俺はいいと思っている
なぜなら彩乃は彩乃だから
【完】